夏の終わりに、祈る。

 喫茶店で煙草を吸っていると、大阪に来た二つの理由のうちの一つ目が手を振って近づいてきた。大学を卒業して以来だったから、六年ぶりになる。****さん。彼女は当時と変わらない、屈託のない笑顔で僕を迎えてくれた。僕はおもわず涙をこぼしそうになった。自分が憐れでならなかった。彼女は当時と同じく僕を裏切ったまま、何も変わらずにこうして笑っているのだった。全く、耐えられなかった。彼女の分のコーヒーを注文したあとに、なんて余裕はなかった。僕は早急に一つ目の理由を済ませるべく、彼女にそれを尋ねた。


「あの頃、****と浮気してたって本当?」


 彼女はより一層魅力的に笑って、「なに、いきなり、今更そんな昔の話?」と僕の肩に軽く触れた。僕も少しだけ笑った。笑うほかなかった。それから震えそうになる声を必死で抑えながら、「****は軽薄な男じゃないか。****があんな男に騙されるなんて」と、冗談めかして言った。「僕と付き合っていたのに、どうして」とも言った。それは言わずにいようと思ったが、傷口から滲む血液みたいに、自分の意思では止めることが出来なかった。彼女は「**だって軽薄な男じゃない」と、僕のことを指さした。僕がその指をきゅっと摘まむと、彼女は尺取虫のようにその指を動かした。彼女は、今度はさっきまでとは違う、妖しい笑みを浮かべる。「久しぶり」と彼女は言った。僕はその顔をたまらなく愛おしく思い、どうしようもなく情けない顔になる。さて、六年前も同じことをしていた。こんなことを、彼女は、六年前に、僕以外の男ともしていたのだ。そのことを、僕だけが、知らなかった。

 一昨日、随分と酔っ払った****が「ごめんな。俺、実はあのとき**とやってしまってるねん」と言い放った、そのときの顔がふいに浮かぶ。自慢げで、誇らしげで、とてつもなく憎らしい表情をしていたことを思い出す。信じられなかった。信じたくなかった。だから―――。


 「それだけ確認したかったんだ。お金、置いておくから、何か好きなもの頼んで」と僕は言って、その場を去った。僕を呼び止める声が聞こえたが、無視して立ち去った。彼女はどんな顔をしていただろうか。しかし、そんなことはもうどうでも良かった。どんな顔をしていたにせよ、僕にその本質を見抜く能力はないことが分かったのだから。彼女は全く嘘をついたまま、僕と幾ばくかの時間を過ごし、過ごし終わっていたのだから。彼女と過ごした全ての時間の意味がまるで変わった。水族館に行った時も、町で一番大きな図書館に行った時も、花火を見た夜も、僕の髪を切ってくれた夏も、あのときも、このときも、彼女は浮気をしていて、僕だけがそれを知らなかった。きっと**と、何も知らない僕のことを笑っただろう。屈託のない笑顔で。恨めしいとは思わない。ただただ、自分だけが間違ったまま、ここまで来てしまったということが悲しいのだ。最後の別れがあって、それから数年経っていることが悲しいのだ。今更、地球が丸いだなんて言われても困る。かまぼこ板みたいな大地で、「かまぼこ板みたいな大地だね」と笑いあっていたのだから。

 携帯電話を取り出すと、知らぬ間に着信が一件あった。****だった。かけ直さない決意をする間もなく、メールが届いた。「呼び出した理由、これだけ? **だって、他の子と付き合うからって言ってあたしと別れたんじゃん」と書いてあった。僕は鼻で笑う。そんなことはもうどうでもいいのだ。僕が憎むべきは****ただ一人だ。僕は鷹揚に彼女にこう返信した。「ごめん、本当にただ確認したかっただけなんだ。**は悪くない。ただ、最近それを知って、びっくりしただけなんだ。今日はほかにも予定があって、ごめん。迷惑かけた」と。それからそのまま、**に電話をかける。留守番電話になったので、こう吹き込んだ。


「もしもし。**に確認した。本当だった。お前が見せてくれた写真、合成でもなんでもなかったんだな。そんなこと、わかってたんだけどな。どうしても信じられなくて。悪いけど、今日以前の話を二度と僕にしないでほしい。今後僕と話す話題は、全て今日以降の話にしてくれ。そしてこの約束は、30日ごとに更新される。つまり、僕が**と話すのは、最新30日間の話題のみだ。これからも、友人でいよう。昔話、思い出話のできない、記憶を共有しない、常に新しい友人でいよう。それじゃ、また東京に戻ったら。」


さて、二つ目の理由の呼び鈴を鳴らす。

二つ目の理由が僕に抱き付いてこう言う。

「久しぶりやなぁ。ちょっと、なあ、浮気とかしてへんやろな?」

僕は言う。

「してないよ。**こそ、してないだろうな?」


もしかすると、僕も彼女も浮気をしているかもしれない。

そんなことはどうだっていい。

未来永劫、それを報告する君が現れないことを、ただひたすら、祈る。


(了)